ボートで行くクルージング三昧

ホームポートを瀬戸内海(仁尾マリーナ)に移してクルージングを楽しんでます

3年ぶりに「大三島(宮浦港)」を訪れる!

年が明けて2025年、今年は巳年、私はこれで6回目の歳男になった。ヨット、ボート乗りには免許返納的な引退年齢のルールはないが、これまでのNYOC(仁尾ヨットオーナーズクラブ)先輩諸氏の行動を見ていると75歳が事実上の標準となっているように思える。皆さんこの年齢から「年をとった、年には逆らえない」などと急に言い出し、下船のための準備(マリンライフの終活?)を始めている。私がメンバーになったのが65歳、その当時はそうした行動を取る先輩を見て「私の引退までにはまだまだ時間がある!」と楽観的に考えたが、今となっては「毎年行ってきた春夏のロングクルーズも後3回しか楽しめないのか」の心境になりつつある。

確かに70歳を超えてからは、新年を迎えることを楽しめなくなってきている。そして、周囲で交わされる新年の挨拶を聞いて「何がめでたくて明けましておめでとうなんだ!」と思う自分にも気づく。それでも、神社に詣出て「健康でいられる事への感謝と新年の抱負」を心の中で呟く習慣は続いている。

そのような訳で、今年の初クルーズは海からの初詣をするべく「大三島」の「宮浦港」に向かった。3年ぶりの訪問である。今日の出港時の海況は南西2m、波はほとんどない状態が最後まで続いた。「仁尾マリーナ」を当日下架して12時に出港、冬季であってもジェネは一発始動、エンジンも問題なく起動した。「大三島宮浦港)」までの航程は47マイル、海峡に支えられて1時間50分で走り切った。

前回の「大三島」(2024年4月)訪問は風向きを考慮して東側にある「井口(いのくち)港」に着けたが、今回は「大山祇神社」の初詣があるので西側にある「宮浦(みやのうら)港」に舫をとった。予報では今日、明日までは西風だが数メートルとなっている。これなら快適な船中泊も約束されるだろう。

大三島」と言えば「大山祇神社」のある島ということで「しまなみ海道」が整備されるまでは通船で瀬戸内海各地から参拝客が大挙してやって来たと聞いている。その名残りがこの赤い神社風の桟橋、参道に残されている。

それでも、瀬戸内海の明神初詣をクルーズ船で廻るツアーもあるようで、30分後にやってきた「SEA SPIKA」からは満席のお客さんが下船していた。

正月三ヶ日を終えた「大山祇神社」は人だかりも癒えて、神域は落ち着きを取り戻していた。樹齢26百年と書かれた御神木を通り過ぎ、本殿での参拝を済ませたのだが、帰路の途中で「御島(みしま)、「神島(みしま)」と書かれた看板を発見し、「それならなぜこの島を「大三島」と表記するのか?、大御島、大神島と表記していないのは何故か?」という疑問が湧いてきた。

実は「大三島宮浦港)」にはもう10回近く来ているので、この港・桟橋に関する情報ネタは尽きている。もし詳しい泊地情報を知りたければ、過去記事を参照していただければ幸いである。よって、今回は「大三島」の地名由来の謎解きをもって記事としたい。

そもそもこの「大山祇神社」の御祭神は日本の山の神の総元締めといわれる自然神である。八幡(応神天皇)、天満宮菅原道真)のような人格神ではない。自然神は神道の原点、だから創建がやたらに古い(592年、推古2年)。大正時代は四国唯一の国幣大社(国直轄の神社)であった。ちなみに、我々に関係の深い海の神の総元締めは、福岡県志賀島にある「志賀海神社」だそうである。

大三島」の地名の由来だが、調べると地政学上の島にちなんでの名前ではないそうだ。そこには、古来「島」という言葉には「範囲、区画」という意味があり、特に霊験明らかな神(明神)が鎮座する区画を「三島」というのだそうだ。よく任侠映画で「うちのシマを荒らすのか」というセリフが出てくるが、その理由もこれで分かった。つまり「三島」という言葉は明神が鎮座する地域、区画を指す一般用語などだそうだ。これで箱根伊豆山中にあって「三島」という地名があり、そこで明神を祀る神社が「三島大社」(伊豆国一宮)と呼ばれる理由もわかった。

 

最後に泊地情報として新たな情報を得た。 料金回収に来た管理人によると「現在桟橋の修復工事が進められ、完成後には電気と水道が桟橋で利用できるようになる」ということであった。その代わり、桟橋係船料が値上げされるようである。まだその額は決まってないようである。