ボートで行くクルージング三昧

ホームポートを瀬戸内海(仁尾マリーナ)に移してクルージングを楽しんでます

2023年初夏クルーズ 4日目「対馬(観光)」

今日は「厳原港」に艇を繋いだままで終日観光することにした。対馬は意外に広い、「厳原港」から写真の「韓国遠望所」までは片道100キロある。何故だか知らないが私にとっての「対馬」はこの写真の「韓国遠望所」に尽きる。他にビジュアルが浮かばなかったのである。何故だろう。教科書で見たのか、パンフレットで見たのか記憶は定かではないが、とにかくこの写真そのままであった。残念ながら、韓国(釜山)の街並みは見えなかったが、手元のパンフレットでは三浦半島から見た千葉県の夜景の様に近かった。

これは明日、「浅茅湾長板浦)」に泊地移動する時、その下をくぐる「万関橋」である。

右奥に見える堤防の間から「万関瀬戸」に入り

くぐってこの水道を奥に進み「浅茅湾」に抜ける。

目指すはこの「長板浦」桟橋である。この桟橋利用にあたってはルールが有るようで、その顛末は明日書くつもりで有る。とても良い泊地と見た。楽しみである。

これは「対馬藩」が所有していた御用船の係留場所である。「お船江跡」と命名されていた。干潮いっぱい時間であったので単なる盛り土手の様だが、こうしたスロットが6つぐらいあった。当時は浮き桟橋という発想はなかったと思われる。

これは、対馬藩主の菩提寺「万松院(ばんしょういん)」の墓所に至る階段。建物自体は何度も火災に遭い焼失しており現在のものは明治12年の建造されたもの。様式はともかく取り立てての味わいはなかった。

誰もが行く「和多都美神社」、いわれよりも本殿正面に5つある鳥居のうち2つが海中に立っているのが印象的。目の前の海は「浅茅湾」(対馬の西側の玄関口)、かつて対馬は大陸、朝鮮からの交流中間点として栄えた時代があり、当時の対馬にとっては表玄関は「浅茅湾」だったと思われる。

対馬に来て初めて知った「西漕手(にしのこいで)」、対馬は南北に細長いので東西の移動はこの自然の水路を使って横断していたという。遣唐使朝鮮通信使もここを歩いて渡り「浅茅湾」で風待ちをしたという。その後、対馬藩、明治政府によって大小の船がそのまま通れる水路が作られた。明日通過する「万関瀬戸」は明治政府が日露戦争の準備のために作った水道である。